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概要

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数に比して極めて少なく、無医村ならぬ無弁理士県が4県もあった(秋田,山梨,長崎,沖縄)。そのような状況であったため、弁理士という職業の存在すら一般には知られておらず、長男が通っていた都内の小学校の担任から便利屋と間違えられたほどであった。(*1) 旧々特許法(大正10年法)では、特許局の審判制度は二審制となっていた。 各種審判の結論である審決に不服の場合、訴訟の控訴審と同様に不服であれば抗告審判で争うことができ、抗告審判の審決に不服があれば大審院で上告事件として争うことが出来る構造となっていた。言うまでもなく大審院は司法官庁であるが、行政庁である特許局の上級審の役割で審理裁判する仕組みとなっていた。したがって、特許局が抗告審判の審決で特許性なしと判断した発明について、逆に特許性ありと判断したときには、審決を破棄して特許すべしとの判決を言い渡したり、特許権につき無効審判請求を成り立たないとした抗告審判の審決を覆して無効とする判決をすることも出来た。しかし、新憲法制定により、すべて司法権は最高裁判所及び法律の定めるところにより設置された下級裁判所に属することとされ、また、行政機関は終審として裁判を行うことは出来ないとされた(76条1項,2項)。この憲法の規定を受けて、旧大審院は最高裁判所と改められ、旧大審院で行われていた上告審としての役割は変わった。東京高等裁判所は、手続的には大審院の地位を承継するものとなったが、三権分立の立場から、行政庁である特許庁がした審決の違法性の有無のみを審理裁判し、違法があれば審決を取り消すだけで、これ以上に進んで、特許すべしとか、特許を無効にするとの権限は有しない。審決が取り消されると、判決は処分をした行政庁を拘束するので(行政事件訴訟法33条)、例えば特許出願を拒絶した審決が取り消された場合には、審判官は、他に拒絶理由の無い限り特許すべき旨の審決をしなければならない。なお、特許庁での抗告審判の制度は昭和34年法により廃止され、現在は一審制となっている。 憲法改正に由来する裁判所法,特許法等の改正によって具体的に特許庁の審決の当否を争う訴訟を担当するようになったのが、東京高等裁判所である。(裁判所法施行令第1条により「大審院においてした事件の受理その他の手続は、これを東京高等裁判所においてした事件の受理その他の手続とみなす」とされた。)同裁判所には当時,民事事件や行政事件を取り扱う部として第一民事部から第六民事部まで6つの民事部があり、新制度が発足した初期の頃には、その6つのすべての部において大審院から引き継いだ事件を処理していた。しかし、昭和24年初め頃からは、各部に係属していた事件を含め、すべて第六民事部で担当することとなった。その後,昭和25年になって、特殊の訴訟については特別部を設けてその部で集中審理するのが適当とされ、内乱・分限・最高裁裁判官の国民審査等に関する訴訟、高等海難審判庁がした海難事件の裁決取消訴訟、公正取引委員会がした審決取消訴訟,知的財産権関係訴訟など、特殊の訴訟事件を東京高等裁判所が第1審として審理裁判する部として特別部が設けられることとなり、その中で、知的財産権に関する訴訟は第五特別部が担当することとなった。しかし、更にその後,昭和33年には第五特別部で扱っていた事件は凡て第六民事部が担当することとなり、以降,同部は、通称,工業所有権部と呼ばれるようになった。判例集をひもとくと担当部として第五特別部の名が散見されるのは、上記の僅かな期間になされた判決である。なお、この第六民事部は高等裁判所の民事部の中の一つであるから、審決取消訴訟のほか,東京高等裁判所の管轄内にある各地の地方裁判所がした判決の控訴審のうち,特許権等知的財産権の権利侵害による差止めや損害賠償請求事件の裁判も担ってきた。 その後、年々知財事件が増加してきたことから、在職中に担当部が1か部増え、退職後には知財専門部は更に増えて4か部となり、その後、平成17年(2005年)4月1日には本庁から分離され、東京高等裁判所支部に位置付けられた知的財産高等裁判所が発足している。 昭和42年、弁理士登録を終えた私は、裁判所在職中に机を並べていた先輩も丁度司法修習を終え弁護士登録をしたときであったので、神田神保町に共同で部屋を借り、事務所を発足させた。一般に弁理士の業務は、特許・実用新案・意匠・商標等の出願や,これらの審判・訴訟であるが、出身が理科系の学部ではなかったこと、裁判所での長年の実務経験があったことなどから、当時扱っていたケースは、出願としては商標関係が殆どで、特許・実用新案は、出願よりも無効審判・取消審判、その延長である取消訴訟のほか、権利侵害訴訟等が主であった。主なクライアントは殆どが東京及び周辺の企業であった。なお、私は先に述べたように台湾生まれ台湾育ちであったため、沖縄県とは全く無縁であった。 沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたのは昭和47年(1972年)5月15日であるから、今年5月で満48年が経過したことになる。復帰後、3,4年が経過した頃は、弁理士業務が軌道に乗ってきた一方,日本科学振興財団発行の月刊誌「特許と企業」に毎号「判決速報」と題する知財関係訴訟の判決要旨を連載したり、弁理士試験に合格した新人を対象とする研修、日本特許協会(現在は、日本知的財産協会)の研修の講師等で多忙な日々を過ごしていた。そんなある日、特許庁発行の商標公報を見ていたところ、Contribution 寄 稿15 OKINAWA INDUSTRIAL FEDERATION NEWS